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Showing posts from November, 2016

I'm still the one

24歳になりました。

誕生日って大晦日みたいなもんだよね。一年が終わって、また新しい一年の始まりがくる。大晦日と違うのは、人によってその日が違うこと。私にとっては誕生日でも、誕生日以外の人にとってはただの日曜日。でも日曜日でよかった。嬉しい気持ちの人の方が多そうだもんね。誕生日じゃない人だって、憂鬱な月曜日よりは、よく晴れた日曜日のがいい気分だよね。

24歳って私は好きな数字。まだまだ子ども、若い、女子、女性。なんか不安定でぎりぎり。

20歳はフレッシュ新成人。
21歳は「はたち」の響きに含まれた輝きを失う。
22歳は何しても大丈夫で楽しい。でも一瞬で終わる。
23歳は引けず進めずなんだか中途半端。
24歳は20代前半の最後の歳。刹那的で尊い。ぎりぎりの感じが好き。

これまでは、歳をとるのが嫌だってことばかり考えていたけど、今は24歳まで元気に生きられたことや家族揃ってお祝いしてくれたことや友達が連絡をくれることに感謝と嬉しい気持ちが自然と込み上げてくる。

大人になるってこういうことかもしれない。

私は歳がタイトルに入った曲を誕生日には沢山聴くんだけど、24歳の曲は全然ない。

22歳はTaylor Swiftの「22」でし
23歳はIUの「twenty-three」
24歳は・・Bruno Marsの「24k Magic」?


歌い出しが脳にしびれて好き。ちゃんと恋に落ちた。今のテーマは「恋に落ちたものだけ」なので。(前記事参考)

いつも誕生日とか元旦とかはipodを全曲シャッフルして「一番最初に流れた曲が今年or○歳のテーマ曲」とかやっていたんだけど、最近お気に入りのアーティストの聞いたことない曲をテーマにしようと思って、彼女のYOUTUBEチャンネルで直近にアップされたMVの曲を選んだ。


それがこれ。好きな曲で良い歳になりそう。こういうとこ、子どもの頃から本当に変わらない。自分でジンクス作って楽しんだり、自分で作ったルールにとらわれ過ぎて苦しくなったり。感性の豊かさとお馬鹿さんって紙一重だと思う。

相変わらず夢と野心は持ってる。頭にはいつも絶えず言葉が流れていて、書き起こすのが追い付かないほど。

25歳になるときにはどんな言葉を持っているかな、誰と一緒にいるのかな、私はもっと強く賢く優しくなれてますように。

恋に落ちたものだけ

たった一枚のセーターとの出会いで
恋に落ちたものだけで生きていこうって決めた。

あんまりにも可愛くて頭がくらくらしたんだ。
ああ、私の思ってた「かわいい」なんて
ほんとにチープでありふれて取り換え可能な
退屈な「かわいい」だったなって気づいてしまうくらい。

すぐに売っている店舗を調べたら、「SOLD OUT」の言葉が出てきてもう一度頭がくらくらした。

いつもなら似たものを探す。半分くらいの値段で買えるものを探す。でも、そんな考え持てないくらい「これが欲しい」と思った。


そしてそれが恋だって思い出した。
恋は融通が利かない。
あれこれ事情は分かっていても
それじゃなきゃ駄目だって思う。
喉から手が出るほど欲しくて欲しくて
でも手が届かない気もして
自分じゃ見合わない気もして
それなのに私が手に入れるべきだって
根拠のない強い強い気持ちがある。

似たものじゃ意味なくて
似たものは偽物で
偽物に触れば、
より本物の恋の輪郭をはっきり感じる。
これは偽物、あれだけが私の本物の恋だって。

その服のブランドのデザイナーさんが
インタビューで自分の服を紹介していた。
ずらっと並んだ服たちはまるで色とりどりの宝石みたいで
私は自分のクローゼットを想像して、まるでガラクタ入れみたいだと思った。

でも私のガラクタ入れにも光る宝石みたいなワンピースがある。ずっと飾って眺めておきたくなるような一枚が。

それは去年の冬に母とニューヨークに行った時、ブルックリンの古着屋さんで見つけた半袖のロングワンピースで、シルクに少しざらつきを足したような不思議な黒い生地に、細かい赤と白の花柄が散らばせたデザインで、襟はレトロな形、腰の高い位置から足元へ向けてなだらかに広がるプリーツ加工があって、恋のない食事ばかりをして大きくなってしまった私の身体でも少し絞まって見せてくれるような、そんなワンピースだった。腰回りには生地と同色のリボンが通っていて、後ろで蝶々結びにすれば、アホみたいだけど映画「500日のサマー」でズーイー・デシャネルが演じるGood girlなお洒落が似合うヒロイン、サマーになった気分になるのだ。サマーは私の理想の「Good girl」だ。

その店に入って、一目見た瞬間、欲しいと思った。
誰かに取られたくない、私のものにしたいって。
こんなのキャラじゃないかなとか
これってドレッシーすぎるかなとか
色んなことが頭をよぎったのだけど
それも分かっていて
欲し…

それはいつも突然で

昼休みにiphoneでtwitterを開いたら、「エッセイストでライターの雨宮まみさんが死去」というニュースが目に飛び込んできた。
瞬間、胸が詰まるような感覚と裏腹に「誤報かな」と思った。それくらい、現実味がなかった。私はただの読者だけど。でも、フォローしている雨宮さんと交流のある方々が動揺するようなツイートをしているのを見て、これは現実なのかもしれないと思った。

その時は私は、会社の目の前の公園で同期と三人で広い階段に並んで腰かけて、近くの小さなパン屋で買ったソーセージパンを食べていた。ぽかぽかとした日差しに、背中がじんわりと暖まっていくのを感じた。隣でカレーパンを齧る同期は「次の髪色どうしようかなあ」とぼやいでいた。


彼女の著書「女子をこじらせて」を読んだことがある。 ボロボロに傷ついても、泥のように重く苦しい気持ちを抱えても、這いつくばりながら私は生きていくんだという、野望や生命力を私は読み取った。精力的に色々な雑誌やネット記事に寄稿しているのも、いち読者として読んでいた。
共鳴する部分があった。 這いつくばっても生きていこうと思った瞬間が私にも何度もあったから。

それでも彼女は度々“死”を手を伸ばせば届く棚の上のお菓子みたいに語っていたから
それが私が彼女の「ファン」だと言い切れない理由のひとつだった。
でも、生きていてほしかった。


雨宮さんの最後のtwitterでの呟きは、これから公開になる映画に対してのコメントだった。
「これ、すごく好きかも」とまだ公開になっていない作品を楽しみに待っているように見えた。そのツイートは、彼女の死の無念さを想像するには十分なものだった。
けれど、雨宮さんのブログに飛んだとき、一番上にあった記事のタイトルは「死にたくなる夜のこと」だった。
まさかそんな風に日常を閉じてしまったのか、とすうっと冷たい混乱が胸に広がった。
それがこの記事だった。 http://mamiamamiya.hatenablog.com/entry/2016/06/08/031212

『死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。 「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」 そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、ど…

11月は私の季節

やっぱりここが好きだ。
このブログはインターネットで発信しようと思ったときの ドキドキと期待と衝動的な自己顕示欲を詰め込んだ場所。 ドロドロのポジティブとネガティブも痛い思い出も恥ずかしさもここには残ってて 広い広いインターネットの海の中の小さな粒みたいなものだけど 宝物入れみたいに、ここには言葉や好きなものを入れてきた。

誰に見られてても構わない。家族でも昔の恋人でも上司でも誰でも。 全部、誰にでもあげるけど、誰にも奪われないものだから。