Sunday, November 27, 2016

I'm still the one


24歳になりました。

誕生日って大晦日みたいなもんだよね。一年が終わって、また新しい一年の始まりがくる。大晦日と違うのは、人によってその日が違うこと。私にとっては誕生日でも、誕生日以外の人にとってはただの日曜日。でも日曜日でよかった。嬉しい気持ちの人の方が多そうだもんね。誕生日じゃない人だって、憂鬱な月曜日よりは、よく晴れた日曜日のがいい気分なんじゃないでしょうか。

24歳ってどんな数字でしょう。どんな歳なんでしょう。
まだまだ子ども?若い?女子?女性?オワコン?女盛り?
私は、ちょっと綺麗な数字だと思うんです。

20歳はフレッシュ新成人。
21歳は「はたち」の響きに含まれた輝きを失う。
22歳は何しても大丈夫で楽しい。でも一瞬で終わる。
23歳は引けず進めずなんだか中途半端。
24歳は20代前半の最後の歳。刹那がすごい。尊い。


だから24歳はぎりぎりの尊さがあるような気がして気に入ってます。


これまでは、歳をとるのが嫌だってことばかり考えていたけど
今は24歳まで元気に生きられたことや家族揃ってお祝いしてくれたことや
友達が連絡をくれることに感謝と嬉しい気持ちが自然と込み上げてくる。

大人になるってこういうことかもしれない。

ねえ、24歳の曲って全然ないよね。

22歳はTaylor Swiftの「22」でしょ
23歳はIUの「twenty-three」
24歳は・・Bruno Marsの「24k Magic」?


あ、めっちゃいいわ。「tonight〜♪」の歌い出しが脳にしびれた。いいね。ちゃんと恋に落ちた。今のテーマは「恋に落ちたものだけ」なので。(前記事参考)

いつも誕生日とか元旦とかはipodを全曲シャッフルして「一番最初に流れた曲が今年or○歳のテーマ曲」とかやっていたんだけど、もうipod持ってないしiphoneそんなに曲入ってない・・でも24歳の自分のBGM欲しい!と思って

最近お気に入りのアーティストの聞いたことない曲をテーマにしようと思って、彼女のYOUTUBEチャンネルで直近にアップされたMVの曲を選んだ。


それがこれ。恋に落ちました。良い歳になりそう。
こういうとこ、子どもの頃から本当に変わらない。自己流ジンクス作って楽しんだり、とらわれ過ぎて苦しくなったり。想像力が豊かなんだかおばかさんなんだか。


相変わらず夢は変わらず、頭には絶えず言葉が流れているので、書き起こす作業を習慣化していきたいと思います。

だめだ、今日はもう眠い。





Thursday, November 24, 2016

恋に落ちたものだけ


たった一枚のセーターとの出会いで
恋に落ちたものだけで生きていこうって決めた。

あんまりにも可愛くて頭がくらくらしたんだ。
ああ、私の思ってた「かわいい」なんて
ほんとにチープでありふれて取り換え可能な
退屈な「かわいい」だったなって気づいてしまうくらい。

すぐに売っている店舗を調べたら、「SOLD OUT」の言葉が出てきてもう一度頭がくらくらした。

いつもなら似たものを探す。半分くらいの値段で買えるものを探す。でも、そんな考え持てないくらい「これが欲しい」と思った。


そしてそれが恋だって思い出した。
恋は融通が利かない。
あれこれ事情は分かっていても
それじゃなきゃ駄目だって思う。
喉から手が出るほど欲しくて欲しくて
でも手が届かない気もして
自分じゃ見合わない気もして
それなのに私が手に入れるべきだって
根拠のない強い強い気持ちがある。

似たものじゃ意味なくて
似たものは偽物で
偽物に触れば、
より本物の恋の輪郭をはっきり感じる。
これは偽物、あれだけが私の本物の恋だって。

その服のブランドのデザイナーさんが
インタビューで自分の服を紹介していた。
ずらっと並んだ服たちはまるで色とりどりの宝石みたいで
私は自分のクローゼットを想像して、まるでガラクタ入れみたいだと思った。

でも私のガラクタ入れにも光る宝石みたいなワンピースがある。ずっと飾って眺めておきたくなるような一枚が。

それは去年の冬に母とニューヨークに行った時、ブルックリンの古着屋さんで見つけた半袖のロングワンピースで、シルクに少しざらつきを足したような不思議な黒い生地に、細かい赤と白の花柄が散らばせたデザインで、襟はレトロな形、腰の高い位置から足元へ向けてなだらかに広がるプリーツ加工があって、恋のない食事ばかりをして大きくなってしまった私の身体でも少し絞まって見せてくれるような、そんなワンピースだった。腰回りには生地と同色のリボンが通っていて、後ろで蝶々結びにすれば、アホみたいだけど映画「500日のサマー」でズーイー・デシャネルが演じるGood girlなお洒落が似合うヒロイン、サマーになった気分になるのだ。サマーは私の理想の「Good girl」だ。

その店に入って、一目見た瞬間、欲しいと思った。
誰かに取られたくない、私のものにしたいって。
こんなのキャラじゃないかなとか
これってドレッシーすぎるかなとか
色んなことが頭をよぎったのだけど
それも分かっていて
欲しいという気持ちが抑えられず買ってしまった。

そのワンピースはクローゼットの中で特別な存在だ。いや、実はクローゼットには入れていない。いつもはハンガーから肩がずり落ちていてもそのままにしてしまう私も、そのワンピースだけはハンガーに綺麗にかけて、壁に吊るしてある。

春や秋は上にカーディガンやジャケットを羽織って、
夏は一枚だけで、冬はその上にコートだって羽織る。
一年中、いつも着ていたいくらい特別な服。

着てるといつも会う人に素敵だと褒められる。
服が褒められると嬉しい。
そうでしょ、と鼻高々で笑ってしまう。
別に褒めてもらえなくたっていい。
恋に落ちた服を着ているとき、
「見合わない私でごめんね」と思いながらも
それを着ているだけで幸せなのだから。


それで話は最初に戻る。
恋に落ちた一枚のセーターは
YUKI FUJISAWAの「記憶の中のセーター」。

柔らかで幻想手的な色のセーターを着た自分を想像したら、夢見心地だ。このセーターを着たら、合わせるスカートも恋に落ちたものじゃないと。

そうしたら、その服を着て出かける所だって、ときめくような場所がいい。

もうそうやって生きていこうって思った。

息が止まるほど可愛いって思った服だけ着て
足元ばかり見て転んでしまうようなお気に入りの靴だけ履いて
手元ばかり見て仕事にならないようなネイルをして
見せびらかしたくなるような色に髪を染めて
心を震わせてくれる音楽だけ聴いて
いつまでも余韻が冷めないような映画だけ観て
いつも鞄に入れておきたくなる本だけ読んで

周りの音なんて聞こえなくなるくらい
深い深い海の中を気持ちよく泳ぐように書いて

日が暮れても帰りたくないような街だけ訪れて

頭の芯からとろけるようなご飯を食べて

恋に落ちた人とだけ恋をして生きていきたい。

それから、自分自身にいつも恋していたい。

そういう自分でいたい。


もう要らない。
今の私には恋しか要らない。

「人生のスパイスだ、全てには意味があるんだ、
苦しいも辛いも抱えていけば深みのある人間になるんだ」
そうやって自分を言いくるめるのにはもう疲れた。

心を締め付ける余計なもの全部要らない。

Thursday, November 17, 2016

それはいつも突然で

昼休みにiphoneでtwitterを開いたら、「エッセイストでライターの雨宮まみさんが死去」というニュースが目に飛び込んできた。

瞬間、胸が詰まるような感覚と裏腹に「誤報かな」と思った。それくらい、現実味がなかった。私はただの読者だけど。でも、フォローしている雨宮さんと交流のある方々が動揺するようなツイートをしているのを見て、これは現実なのかもしれないと思った。


その時は私は、会社の目の前の公園で同期と三人で広い階段に並んで腰かけて、近くの小さなパン屋で買ったソーセージパンを食べていた。ぽかぽかとした日差しに、背中がじんわりと暖まっていくのを感じた。隣でカレーパンを齧る同期は「次の髪色どうしようかなあ」とぼやいでいた。


彼女の著書「女子をこじらせて」を読んだことがある。
ボロボロに傷ついても、泥のように重く苦しい気持ちを抱えても、這いつくばりながら私は生きていくんだという、野望や生命力を私は読み取った。精力的に色々な雑誌やネット記事に寄稿しているのも、いち読者として読んでいた。

共鳴する部分があった。
這いつくばっても生きていこうと思った瞬間が私にも何度もあったから。

それでも彼女は度々“死”を手を伸ばせば届く棚の上のお菓子みたいに語っていたから
それが私が彼女の「ファン」だと言い切れない理由のひとつだった。

でも、生きていてほしかった。



雨宮さんの最後のtwitterでの呟きは、これから公開になる映画に対してのコメントだった。

「これ、すごく好きかも」とまだ公開になっていない作品を楽しみに待っているように見えた。そのツイートは、彼女の死の無念さを想像するには十分なものだった。

けれど、雨宮さんのブログに飛んだとき、一番上にあった記事のタイトルは「死にたくなる夜のこと」だった。

まさかそんな風に日常を閉じてしまったのか、とすうっと冷たい混乱が胸に広がった。

それがこの記事だった。


『死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」
そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。
(中略)

誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、ひどいものに触れたり、そういうことがあるたびにまた、あの冷たい手すりを握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。
いつも、手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。
そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。
手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。
たまらなくそう思うときがある。

感情が、すこし、過多なのだろう。

明日が、強烈な一日であるように。
「これでいいんだ」と思えるような決断ができるように。
引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。夜が過ぎるのを待つ。(ブログ記事から引用)』


彼女は夜が過ぎるのを待てなかったのだろうか。
手すりの向こうに自ら行ってしまったんだろうか。

そんな答え合わせもう出来ないんだけれど。

私はもとからただの読者で、彼女の文章に心を寄せていただけで、
出来れば其処で戦って欲しかったし、
戦わなくてもいいから
「この文章を書いた人が今同じ時代に居るんだ」という心強さを感じていたかった。


「女の子よ銃を取れ」って言葉をポケットにいつも握りしめていたのになあ。







Sunday, November 13, 2016

11月は私の季節

やっぱりここが好きだ。

このブログはインターネットで発信しようと思ったときの
ドキドキと期待と衝動的な自己顕示欲を詰め込んだ場所。
ドロドロのポジティブとネガティブも痛い思い出も恥ずかしさもここには残ってて
広い広いインターネットの海の中の小さな粒みたいなものだけど
宝物入れみたいに、ここには言葉や好きなものを入れてきた。


誰に見られてても構わない。家族でも昔の恋人でも上司でも誰でも。
全部、誰にでもあげるけど、誰にも奪われないものだから。