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それはいつも突然で

昼休みにiphoneでtwitterを開いたら、「エッセイストでライターの雨宮まみさんが死去」というニュースが目に飛び込んできた。

瞬間、胸が詰まるような感覚と裏腹に「誤報かな」と思った。それくらい、現実味がなかった。私はただの読者だけど。でも、フォローしている雨宮さんと交流のある方々が動揺するようなツイートをしているのを見て、これは現実なのかもしれないと思った。


その時は私は、会社の目の前の公園で同期と三人で広い階段に並んで腰かけて、近くの小さなパン屋で買ったソーセージパンを食べていた。ぽかぽかとした日差しに、背中がじんわりと暖まっていくのを感じた。隣でカレーパンを齧る同期は「次の髪色どうしようかなあ」とぼやいでいた。


彼女の著書「女子をこじらせて」を読んだことがある。
ボロボロに傷ついても、泥のように重く苦しい気持ちを抱えても、這いつくばりながら私は生きていくんだという、野望や生命力を私は読み取った。精力的に色々な雑誌やネット記事に寄稿しているのも、いち読者として読んでいた。

共鳴する部分があった。
這いつくばっても生きていこうと思った瞬間が私にも何度もあったから。

それでも彼女は度々“死”を手を伸ばせば届く棚の上のお菓子みたいに語っていたから
それが私が彼女の「ファン」だと言い切れない理由のひとつだった。

でも、生きていてほしかった。



雨宮さんの最後のtwitterでの呟きは、これから公開になる映画に対してのコメントだった。

「これ、すごく好きかも」とまだ公開になっていない作品を楽しみに待っているように見えた。そのツイートは、彼女の死の無念さを想像するには十分なものだった。

けれど、雨宮さんのブログに飛んだとき、一番上にあった記事のタイトルは「死にたくなる夜のこと」だった。

まさかそんな風に日常を閉じてしまったのか、とすうっと冷たい混乱が胸に広がった。

それがこの記事だった。


『死んだら、みんな、「わたしたちと一緒にいる時間は楽しくなかったの?」と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」
そんなことない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、わたしにはわたしの、どうしようもない傷がある、というだけのことなんだ。
(中略)

誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、ひどいものに触れたり、そういうことがあるたびにまた、あの冷たい手すりを握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。
いつも、手すりから引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、仕事をして。
そうじゃない日常が、どこかにあるんじゃないか。
手すりを引き返すなら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。
たまらなくそう思うときがある。

感情が、すこし、過多なのだろう。

明日が、強烈な一日であるように。
「これでいいんだ」と思えるような決断ができるように。
引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。夜が過ぎるのを待つ。(ブログ記事から引用)』


彼女は夜が過ぎるのを待てなかったのだろうか。
手すりの向こうに自ら行ってしまったんだろうか。

そんな答え合わせもう出来ないんだけれど。

私はもとからただの読者で、彼女の文章に心を寄せていただけで、
出来れば其処で戦って欲しかったし、
戦わなくてもいいから
「この文章を書いた人が今同じ時代に居るんだ」という心強さを感じていたかった。


「女の子よ銃を取れ」って言葉をポケットにいつも握りしめていたのになあ。







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野暮

つらつら書いた長文をそっと消した。変に綺麗な言葉でドラマティックにまとめるのは、今の私には野暮なことに思えてしまう。iphoneのメモ帳に並ぶ言葉はまるで小説の一ページみたいで、私の言葉じゃない気がして「なんか違う」と急に嫌になった。

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そういうことを、最近よく思い出すのはなんでだろう。