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Showing posts from 2017

蹴伸び

ここを開くといつもほっとする。しかめっ面して好きじゃない仕事に追われる自分はあまり好きじゃなくて、無茶苦茶に自由にやっている自分の方が好き。

好きな人が何人いたっていいし、仕事に手を抜いてもいいし(但し全部自己責任という覚悟のもとで)、突然旅に出たっていい。

熱く仕事論を語った後に、突然辞めちゃうような私でいい。

誰かの顔色を気にして自分をすり減らす時間はもう十分過ぎるほど過ごしたから、好きなことを全力で思いっきりやっていきたい。なんでか分からないけど、私はどこでも何しててもやっていける自信がある。

たとえば今ここにいる人たちにとても冷ややかな目で見られても、信じてくれて愛してくれる人がいるって私は知っているから、特に何にも怖くないのだ。

怖いのは突然死んでしまうことだけ。あとは何にも。

大きなプールの端っこに立っている人たちなんて置いて、ぽーんって壁蹴ってすいーって真ん中に出ていきたい。

近い友達に無責任って言われたことあるけど、私は全然それでいい。じゃああなたが私の人生に責任持ってくれるの?って話。

あれもこれも全部に責任感じてたら楽しく生きていけないよ。自分の選択にさえ責任持ってればいい。


14番目の月

「あなたの気持ちが読み切れないもどかしさ
だからときめくの
愛の告白をしたら最後 そのとたん終わりが見える
言わぬが花 その先は言わないで
次の夜から欠ける満月より14番目の月がいちばん好き」
14番目の月/スピッツ

青春ごっこみたいな14番目の月の夜
先のことを何も考えずにいられるぎりぎりの私
十五夜は雨だから14番目の月を見ておきたかった
厚くて速い雲間から覗く月は明るくて
こんな日々がいつまで続くんだろうと思った

「ほら月明かりが
長い夜に寝付けない二人の額を撫でて
まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実頬張っては月の裏を夢見て
笑っておくれダーリン素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」

エイリアンズ/キリンジ


命を燃やす人

もう一年近くが過ぎるのに、雨宮まみさんが死んでしまった衝撃は、今も私の心に引っかかったままだ。

「書きたいことが書きたい。いい文章が書きたい。お金とかそういうことじゃなくて、これが私ですと言えるような、そういう文章をひとつでもいいから書きたい。そうじゃないと、人生なんてあっという間に終わってしまう。(略)嘘をつくのはやめよう。対外的にいい顔をするのはやめよう。できもしないことを、無理してできるふりをするのもやめよう。今年だけでもいい、嫌なことは嫌だと、できないことはできないと言おう。私は、私の人生を生きる。だって、もうそんなにたくさん残ってるわけじゃない。まだ若い、けれど、永遠に続くわけじゃない。生命自体は続いても、体力も気力も充実していると言える期間がどれだけ続くかわからない。私は、私のしたいことをする。私は、自分の書きたいことを書く。そして私は、なりたい私に、本来そうであった生身の私になるのだ、と思った。」引用:「40歳がくる!」より

自分の書いた言葉かと思うほど、私は雨宮さんとある部分の思考が似ている。似ているから彼女の文章が好きだった。命を燃やして紡ぐ言葉が好きだった。雨宮さんが突然死んでしまったとき、やっぱり人生はふいに終わってしまうのだなと、したくなかった答え合わせをしてしまったような気持ちになった。

それでも私は命を燃やして作る人が好きだ。雨宮さんがもう言葉を生み出すことがなくても、雨宮さんの書いた言葉に私はこれからも何度も救われる。その言葉は時間とともに私にとって意味を変える。雨宮さんの声はずっと生き続ける。命を燃やし身を削って何かを生み出すことは死へ向かうことではないと思いたい。命をそこに乗せられるだけの想いがあるということ。それは時間を超えて届くということ。そういう音楽や舞台や言葉が持つ力に私はいつも引力のように吸い寄せられる。国や時代に関係なく、深く共鳴する。太宰、ゲーテ、サガン、ビルエヴァンス。そういう自分の心の真ん中に容赦なく入ってくる音楽や言葉。雨宮まみさんの叫びのような文章もそうだ。星野源が日本中に届けようとする丁寧な言葉や穏やかな優しさ、野田秀樹が狂気的に生み出す舞台の上の爆発的なエネルギーと、そういう人が私の情動を動かす。

死んでほしくない人達。ずっと発信し続けてほしい人達。雨宮まみさんもそうだった。だから私は今も雨宮さんの言葉が聞きたく…

冷えた朝の空気とか

どうでもいい惰性の恋愛なんて耐えられない。それならひとりで本を読んだり映画を観たりしてあれこれ考えてる時間の方がずっと豊かな気持ちになる。お互いがいないとダメになってしまう恋愛も友情も楽しくない。自立したひとりずつが手を取り合ったときにもっと大きなエネルギーになる方がワクワクするから。恋愛とか、彼女とか、親友とか、形式の言葉が苦手。

確かに、意味のないものなんてひとつもないんだけど、どうでもいいものは本当にどうでもいいと割り切る勇気を私は持ってたい。私が大切だと思うものは、人がどうでもいいと笑っても絶対に大切にする。冷えた朝の空気の中で考え事をする時間とか、髪の毛のサラサラする調子の良さとか、私が好きなものは私がちゃんと大切にする。




私の大好きな星野源は「くだらないの中に愛がある」と歌うけど、それは彼が日常に本気で向き合っているからこそ気づける尊いもの。


いつだってふいに死んでしまうのが人間だ。生きている意味をもっともっと感じたいから生きている。「考えすぎだよ」と言われても、思考することをやめられない。「些細な日常の幸せに人生の意味はあるんだよ」と言われても、テンプレのそれを得て満ちたりた気持ちになるなら野心と夢をちゃんと形にするまで満たされてたまるか、くらいの気持ちでありたい。自由に身軽に生きてたい。でも分かち合いたいし寂しいのは嫌だ。矛盾だらけの私でいたい。明るく朗らかにのびのびと生きられる場所に住みたい。綺麗になんてまとまれないし、物分かりの良い恋人にも娘にも部下にもなれなくていい。私は自分が惹かれたものを信じて、それを大事にする。恋愛も会社も家族、私が選んだ大事なもの。それは鎖じゃないから、私はいつだってどこにでも行ける。

生き急ぐ。

自分の生き方を思う時、浮かぶ言葉がふたつ。「刹那」と「生き急ぐ」。相反する言葉かもしれないけど、それはぴったりくっついて、私の中にいつもある。刹那は、今が一秒でも失われることを惜しむ気持ち。いつだって夢みたいな一瞬が過去に変わっていくことが惜しいし、その一瞬から自分が振り落とされていくのは悔しくて悲しい。だけど同時にあるのは生き急ぐ気持ち。脇目もふらず前へ前へと進んでいきたくなる。何の変哲もない日常の中に、人生の意味や答えが見つかるかもしれないのに、つい、それとは違うものが欲しくなってしまう。



悩むふりや愛すふりなんてしている時間は私にはなくて、いつだって本質が知りたい。その人の芯の部分、その仕事が存在する意味、そういうものが知りたい。涼しい部屋でずっと寝て起きて心地良い感覚だけを味わうとき、自分が死に近づいていくのを感じる。痛かったり苦しかったり、悩みもがいて、何かを得たとき、ああ生きているなって思う。クロールの息継ぎみたいに必死に泳いで、苦しくなって思いっきり酸素を求めるとき、生きていることを感じる。


今しかできないことがしたい。遠くまで行きたい。濃くて強くて気が遠くなるような感覚に「これ以上の人生はあるかな」と思ってみたい。明日死んでしまうとしたら、私は何処にいて誰といたいんだろう。近頃はずっと、そんなことを考えている。

眠気

夏風はもうすっかり秋風に変わった。9月が終わっていく。 私はずっとあくびをしていて、下瞼にたっぷり溜まった眠気に揺られて、いつまでも溺れていた。脳と視界がくらくらして手足はポカポカとあたたかく、少しダメになっている自分がそこにいた。恋ってこういうものだったかな、なんて記憶を辿りかけてやめる度に、どうしようもなく「今」しかないと気づく。



金木犀は月曜日の大雨で花を落としてしまったのか、もう香らない。一瞬だったなあ。好きな人と嫌いな人が色濃く分かる季節に、欠点なんて愛せるか愛せないかの問題だなと思う。長い人生(もしかしたら短いのかもしれないけど)で考えたら、そこに悩んでいる時間はとても勿体ない。あれもこれも欲しくて時間も体力もお金も足りない24歳。25歳は一体どんな1年になるんだろうと気になるけれど、25歳の1年よりもお昼休みまでの45分間をどうやり過ごすかの方が今は重要だ。

こんなに眠くて生きていけないと思った次の瞬間、すっきり目が覚めたりする金曜日。デスクでうとうとして、ああいけないと目を開けると服から彼の匂いがする。あと30分。30分経ったら眠って外へ行く。私たちは自分が思うよりずっとずっとたくましい。



文通

私はひとりが好きで、その人はひとりが嫌いで
それなのにお互いを選んだから、私たちは分からないことだらけだ

なんだか文通みたいだなと思う
拝啓好きな人、の手紙にはこんなことを記す


・ひとりが好き
・だけど自分のことを知ってほしい
・愛情を大きく伝えるのが苦手
・恋には賞味期限があると思っている
・生き急いでしまう
・生活がだらしない
・とても意地悪な面がある
・秋冬は生きていることが楽しい

その人からも返事が届く
ここは同じ、ここは違うね、こんな面もあるよ
私はそれを読んでまたお返事を書く。

今はまだ1,2通のやり取りしかしていないけど
ずっと繰り返していくことができたら、出会った意味を見出したりするのかもしれない。少し逃げ出したくなったりしながらも、厚みを増していく受け取った手紙の束が私に色んなことを教えてくれるのかもしれない。



「私たち」なんて言ったって、それは私とあなたの他人同士。
私以外はみんな他人だから、分かったふりはしたくない。
25年一緒にいる家族のことだって、今もまだ分からない面がたくさんある。

あなたの引き出しに入る手紙には、優しくて嘘のない言葉を書きたいと思う。
レシートの裏に油性ペンで殴り書きしたみたいな優しくない言葉を投げつけられた日も、そっと引き出しからあなたの手紙を取り出して読みたいと思うから、私の手紙もそういうものであってほしいなと思う。

始まったばかりの文通、一通一通を大事にしよう。誰かに踏まれても、破られても、たったひとりにちゃんと届けばそれでいい。




night swimming

時々、一緒にいると不安になる。心がざわざわと心細くなる。世界中にひとりぼっちみたいな顔をしたその表情を私はよく知っているから。その人が抱える感情があまりにも強くて濃くて、私もそれを受け取ってしまうから、もう戻りたくない場所へ少しだけ連れ戻されてしまう。谷川俊太郎の「20億光年の孤独」の「万有引力とは引き合う孤独の力である」という一節を思い出す。出会うべくして、なのかもしれない。私はその人が閉じこもってしまう場所をよく知っている。そこは例えるなら、終わらない夜に忍び込む誰もいないプール。膝を抱えて沈めば、ゼリーみたいな水にどこまでもどこまでも潜っていける。何の音も聞こえなくて、光も差してこなくて、冷たくもあたたかくもなくて、ただそこに身を任せて沈んでいくだけ。前の私なら一緒になって沈んでいっただろう。そこは何もないけれど、少し居心地がいいから、つい長居をしてしまう。眠ったり起きたりしながら朝も昼も夜もなくなって、溺れたことにすら気がづかずに時間が経っていたりする。ああこのままじゃだめだと、そこから何度も水面に手を伸ばしては、水面まで顔を出し息継ぎをして、またすっと潜っていくのを繰り返していた。でも水面上に光る月がどうしても見たくなって、水圧に抵抗しながら懸命に上へ、上へともがいた。ようやく足がつく浅い場所に辿り着いたときには身体はすっかりふやけていたけれど、力を抜けば仰向けに水に浮かんで月を眺めることが出来ることにも気づけた。


その人はまだ光の届かない深いところにいるのかもしれない。今なら私は勇気を持ってそこまで潜っていける。どんなにそこが静かで居心地が良かったとしても、絶対に手を引いて水面まで一緒に上がってみせたいって思える。ああ疲れたね。指がまだふやけてるって笑いながら、月を眺めて一緒に帰りたい。何度もそこへ戻ってしまうなら、何度もそこへ迎えにいけばいい。いつか道を忘れてたどり着けなくなってしまうまで、何度も迎えに行けばいい。








一番最初の金木犀の香り

秋がきて、気付いたらどんどん元気になった。ぎりぎりのところで、それでも腐らないでいたら、ちゃんと良いことが沢山あった。この秋初めての金木犀の香りに気付いたとき、隣には好きな人がいて、その瞬間、驚くほど満ち足りた気持ちになった。心の中の色んな角が取れて、まあるくまあるくなっていくような気がした。手の甲に、こめかみに、身体の奥の方に、あたたかい光が流れていくような感覚がした。私もちゃんと物語の主人公なんだな、と幸福で同時に誇らしい気分になった。

だけど、そんな奇跡みたいな瞬間は本当に瞬間だって知っている。知っているからこそ、しっかりと切り取って心の中に思い出として残しておく。辛い時にはそこからそっと会いたい人や味わいたい気持ちを取り出して、ああこういう瞬間があるから今までやってこれたな、これからもきっとこういう瞬間があるから生活を続けようって思えたりする。

もちろん私は本当に欲張りだから、その奇跡みたいな瞬間を日常的に味わいたいと思ってしまうし、もっと素敵な奇跡を見てみたいと思ってしまうし、少し嫌なことが起こるとそのことで頭がいっぱいになって「選択を間違えちゃったなあ、私はだめだなあ」なんて簡単に思ってしまいがちだけど、どんなに行き詰って先が見えない状況になっても、今まで起こったキラキラした一瞬はなかったことになんてならない。それをちゃんとわかっていれば、私は何度でも自分を持ち直せるっていつも思う。




時には明るい歌を

髪を暗くした。
陽の光にあたると少し茶色が透けるような黒。

たくさん喋って食べて歩いて考えて。
そんな日々の中にいると、ああ私生きているなって思う






夏が嫌い

長く結んだ一つの髪束を根元から切ってしまいたいと思う時がある。何度も。

伸ばすのは気が遠くなるほど時間がかかるのに、切ってしまうことは一瞬。あっけない。

それでも、何度も床に落ちる髪束を想像しても、実行したことはない。

だって考えてしまうから。その後の後悔を。

明日のことを考えずに感じるままに生きることは今の私には出来ない。

明日がこわいし、明後日もこわい。

でも、立ち向かう勇気はある。いざとなったら逃げてしまえと思える図々しさもある。



私はまだ何も成し遂げていない24歳で、肩書きはなくて、お金もなくて、恋人もいない。

そこにある明日だけが私の持ち物で、それはあまり輝かしい1日ではないけれど、神様は私に想像力をくれたから、私はどんな1日も好きなように変えていける。

長く結んだ一つの髪束を根元から切ってしまいたいと思う時、その先の後悔も想像する。やがてやってくるだろう諦めも想像する。想像して、想像して、決断をする。

その決断はぬるくて、もろくて、どっちつかず。

それでいいんだ。私、自分と向き合うことすら出来ずに悩むことから逃げる人にはなりたくないから。もがいた先にしか答えはない気がする。

悔しくて仕方がないけど、それをバネにして絶対に。絶対に。

いつか、ばっさり髪束を大きなハサミで切り落として笑っていられるくらいの器の人間になりたい。



十五夜に空を飛んで

シンガポールへ旅行に行った。

ローカルも観光客も分からないくらい人種も文化も混ぜこぜ。

暑い国特有の軽やかな空気。

昼間どこにいたのだろうと不思議になるほど、日が暮れると外に出てくる人の多さ。

夜は長くて朝も昼もあまり境目がない。

夕焼けのオレンジが濃い。

出来て70周年の新しい国は全てが人工的。

植物園、大きなショッピングモール、夜の動物園、

リトルインディア、チャイナタウン、アラブストリート

まるでひとつの大きなテーマパークのようなその国に住む人々は一体どこから来たのだろう。なぜそこに住むことを決めたのだろう。

私はそこでは誰でもない。日本人という名札すら捨てられる。

そこにいることは心細くて心地よくてひとりぼっちで自由。

ホテルのシーツは冷たくて気持ちが良くて、ここ最近で一番よく眠れた。

飛行機の中はなぜか色んな思い出が浮かんで来て涙が出た。

使い古された言葉を思い浮かべた。「人生は旅」、本当にそうだ。

どこを終着点とするか、誰と、どんなペースで旅するか。どんな風景を見るか。

それを知るために私は旅をする。自分探しとは上手く言ったものだ。


帰ってきてからはずっと胃が痛い。

やっぱり眠れなくてこうしてキーボードを叩く。





20th century women

観よう観ようと思っていて、ようやく。 心にエンジンがかかっているときはこういう映画を避けてしまう。 心が揺さぶられたり、世界観や物語に引っ張られてしまいそうだから。 心がぐらついてそれまでの勢いが消されてしまうのがこわい。
がらんどうのようなの心のときは、 こういう映画がまるで水みたいにぐんぐん染み込む。
色彩も、会話も、音楽も、表情もすべてが訴えかけてくる。
行き場の無い心に寄り添う映画だった。
時折目頭が熱くなって涙が頬を流れた。

自己破壊的だと言いながら、誰より自己愛の強いジュリー。 思想の自由を訴えるのに、無意識に人を自分の価値観で縛るアビー。 出会う人、過ごす時間、全てを糧に自分を形成していくジェイミー。

全ての登場人物の片隅に自分の影を見つけた。


























ひとりより怖いもの

ひとりぼっちは全然こわくない。
それよりこわいのは 深く深く繋がっているようで 何も分かち合えない関係
その訳の分からない関係がこわい
一方的に誰かの中で 私という存在が大きくなって 想いという、何か薄暗く湿っぽいドロドロしたものに足元を固められて動けなくなるのがこわい
どうしてだろう 「愛はこれだけあります」と 差し出されたところで 「でも私は要りません」と思う
それでボロボロに傷付く人を見るのが嫌だ、涙で濡れた眼差しが「全部お前のせいだ」と訴えてくる
なんでお前はそうなんだ、と

だって他人同士だから。ひとつになることなんて出来ないのに。




鶴見線

今日初めて鶴見線に乗った。
鶴見線は、街と工業地帯を繋ぐ乗り物だった。
送り届ける人のいない日中は本数もほとんどなくて車両もガラガラだった。
ぐんぐんと工業地帯へ入っていく電車はさながらアトラクションのようで、
見渡す限り工場ばかりのそのエリアはまるで巨大なテーマパークのようだった。

帰り道、工場だらけの街を歩いて駅へ向かった。
車で通勤する人が多いのか、ほとんど人は歩いてなかった。
ネオンも家の灯りもない道は足元が暗かったけど
見上げると月がまんまるで、煌々と発光してとても綺麗だった。
川面は月に照らされて、白い光が溶けているように見えた。




本屋さん

本屋さんにいると、とろんと眠くなってくる。
絵本や料理本をぱらぱらとめくりながら、
ちゃんと自分の家庭を持ちたいな、と近頃思う。
その時隣にどんな人がいるのか分からないけれど





眠りから覚めて思うこと

ドアを開けたら春の気配がする冷たくて新鮮な空気に 瞳も指先も顔も髪も包まれて「潰れちゃいけない」と思った。
上手くいかないことのひとつやふたつ どうにかして生きていけばどうにかなる
そろそろこの街を出よう、潰れる前に出よう

眠りの中で思うこと

とにかく、日曜日に寝過ぎてしまう。
まるで吉本ばななの「白河夜船」の主人公みたいだ。
「深い眠り」は意識の向こう側だ。
願いも、会いたい人も、不安も、記憶も、出て来てしまう。

自分が思い描く「なりたい私」であろうとするあまり
反動で疲れて眠りこけてしまう。



眠っている時は幸せだ。
うつらうつらと眠っていると、「なんでもいいや」という気持ちになる。

昼も夜もないような日曜日から目覚めた月曜日は
「今週こそ」と思うし、日々暖かくなる外の世界を感じて
「私が眠っている間に春がきたのだろうか」とぞっとする。

眠り過ぎる自分のことは好きではない。なりたい自分でもないし。
でも、どれだけ寝過ぎても、どれだけ食べ過ぎても、
それがギリギリで自分を保つ方法だから、自分を責めたくはない。

結局、苦しいのは私だから。
立ち向かうのも私だし。

今もまだ身体はベッドへ戻ろうとしている。
あと1日でいいから、気が済むまで眠って、それから完璧な朝食を食べたい。

それでも月曜日まではあと2時間もない。
仕事をしないと。寝た分を取り戻さないと
本当の自分に戻らないと。









2017.1.23

すごく疲れている。自分に。 「あれも出来るぞこれも出来るぞ」 「明日はこんな私になるぞ」
そんな自分の心に疲れている。 自分の抱える炎に疲れている。 私の持つ希望に。途方もない悲しみに。 私の気持ちは、壮大過ぎるのだ。
凍えそうな寒さや 熱く胃に落ちる珈琲に ああ生きているなあと嬉しくなり
止まらない命と時間の刻みに 幼いときの記憶を思って涙が落ちる
私の気持ちは私が思うよりずっと 大きく強く波打って遠くまで行ける。
だけど私の身体はそんな心を抱えきれない。
身体はいつも心に振り回されて 心はいつも身体に縛られている。
明日という日は途方もなく自由なのに 夜と朝はまるでタイムカードのように ただそこにあるだけだ
でも眼を閉じれば 私は何処までも深く潜れる たった一人、卵の殻の中で膝を抱えて 透明な世界にプカプカ浮いていられる
私はずっと私のままだ

いつものこと

くじけそうになる日もあるし
自分がとてもくだらない存在に思える日もある
何をしていても楽しいと思えない日や
耳に入る音全てがノイズに聞こえてくる日もある


そんな一瞬が溜まっていくと
「あれ?私の人生って退屈なのかな」と思えてくることもある
だから私は必死でそれから逃れようと走る

数滴の香りをまとって立ち込める靄のような気分を払ったり
コーヒーを飲んでぼうっとしてみたり

心にもやが立ち込める瞬間は誰にも訪れるし、完全に逃げることなんて出来ないけれどその一瞬よりも、ふと心に宿る光を大事にすくいあげたい。




2017 happy new year.

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今月のテーマ曲は今一番観たい映画「lalaland」のこの曲。

ポスターが素敵だからって理由だけでサントラをダウンロードしたんです。
で、元旦に友達と出かけた帰り、駅から家までの夜道のお供にこれを聴いて、
イントロでもう「うわ、これ好き!」って興奮しました。
ピアノのうきうきするリズムやハミング、ジャズ、全部好きです。


元旦の夜をとても美しく楽しく彩ってくれたこの曲が1月のテーマ曲。


さて、今年はどんな年になるんでしょうか。
絵馬を人生で初めて書きました。
「自分の人生を自分の力で切り開く」と。

自分を信じて、自分の「好き」や「綺麗」という感覚を信じて、
思いっきり自分の人生に邁進する1年にしたいと思います。