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Showing posts from 2017

mood

夜と朝のあいだ

ついさっき見た月を反対方向から見上げて歩きながら、何をやってるんだろうと自分に呆れて少し面白くなった。12月上旬の夜明け前は、思ったよりずっと暗くて静か。車も人もいないいつもの道を、月を見上げながら歩いた。1日と数時間前まで満月だった月は、まだしっかりと丸かった。煌々とした光を、まるで独り占めするみたいにたっぷりと浴びたら、色んなことが楽しく思えた。

必要もなく始発電車に乗って、タクシーで恋人の部屋へ向かった。夜明け前独特の、静かで澄んだ空気をタクシーの窓越しに感じていると、なんだか早朝に空港へ向かう朝みたいな気がしてやっぱり少し楽しかった。

トートバッグの中にはまだ暖かいお弁当が入っている。お弁当を渡すという口実をほかほかに詰めて、私は恋人の部屋に始発で向かうのだ。

私は、「呼ばれたら何処にでも行きます」「あなたの為なら一歩下がって」みたいなタイプではない。お弁当を渡すのは、どこまでも私のエゴで、わがままで、悔しさで、こどもっぽさが理由。

月曜日の夜は途中まで完璧だった。でも小さな話から糸がほころび始め、気付いたら絡まってほどけなくなっていた。日付を超えても続く電話で、私のネジはゆるみ、抜け落ち、気付いたら深夜のキッチンで生姜焼きを焼き、卵を茹で、ご飯を詰め、始発電車に飛び乗っていた。自分のお弁当は作りそびれた。

吉本ばななの「キッチン」の場面みたいだと思う。主人公のみかげが、好きな人に深夜に「このおいしさを共有したい」とかつ丼を届けるシーン、あれみたいだ。でもこんなの彼に伝わるわけないから、やっぱりこれは私のエゴだ。

恋人は今頃きっと夢の中だ。早く彼の布団の中に、夢の中に、猫のように潜り込みたい。優しい彼はきっと快く迎え入れてくれるだろう。こんな頭のネジが何本かないような彼女でいいのだろうかという疑問は残るけど、それでも好きでいてくれる人に出会えた私は本当に幸運だ。

明日はどんな日になるんだろう。明日を変えていけるのは、私と好きな人だけ。
空にはまだ月が浮かんでいる。昨日はまだ終わってなくて、今日はまだ始まっていない。


to do

死ぬまでにしたいことリストは100個じゃ収まりきらないな。

いつか一緒にニューヨークのエンパイアステートビルからの夜景を見たい。飛行機に一緒に乗って、窓から小さくなる街を眺めたい。日付を超えて旅をしたい。


私が育った街、私が育った街、行ったことのない街、いつも過ごすこの街、色んな場所の光や匂いを一緒に知りたい。

この気持ちを知る前にはもう戻れないな。何が嫌いで、何が好きで、本当に必要なものは何か、自分がどんな人間なのか、前より少し分かってきた。

でもなんだか少し弱くなった気がする。すぐ悲しくなるし、心細くなるし、何でもかんでも口に出しては後悔する。

鼓動の暖かさに額を付けて丸くなるとき、猫になってしまいたいと思う。子どもに戻った気分にもなる。いつのまにか忘れてしまってたことや、私の真ん中にあったものが、ふと戻ってきたような気がする瞬間がある。


お月さまにお願いすることはいつも同じ。

こんな気持ちはなくならなくても毎日の汚いものにかき消されてしまうから、私の言葉で大事にするんだ。

つまらないものに流されずに私のままでいられますうように。

日付を超えなくても新しい風景を見てみたい。

空一面の星空をいつか一緒に見たい。
普通で特別な休日を何度も何度も繰り返したい。




ねむい

寒くて眠くて疲れていると、心なんて簡単にだめになる。やりたくないことが目の前にあって、もうなんにもしたくなくて、ただただ眠りたい夜。真っ白な部屋でひとりきりでタオルケットの冷たいところを探しながら眠る想像をする。その部屋の中でだけ泣きたい。そんな部屋どこにもないのに、小さな頃から繰り返す想像。

現実の私は片方しか聞こえないイヤホンを耳にねじ込んで、aikoを聞いたりして少しだけ救われる。

浅い眠りを繰り返して、よく分からない夢を見て、やり場のない悲しさも夢に溶かしてしまう。

誰も知らない私をずっと持っていたい。


25歳

25歳になった。

目の前の現実と自分の心の距離がだんだん開いていく音は鳴りやまない。
でも目の前の、今いるここが現実だ。ここにしか私はいない。
表現は逃げ場じゃない。
私には表現なんかなくて、情動しか持っていない。
情動がなくなってしまったら、私も人生も滞ってしまう。

今の私は何も綺麗にまとめられない。
ちぐはぐで不安定でいつもバラバラ。
綺麗にまとめようとするほど嘘が増えていくから嫌だ。

真空パックに閉じ込めたい瞬間を宝箱に入れていつまでも愛でていたいけど
それじゃ誰かの表現にお金を払うことが出来ないし
表現だけを見ていても旅行にも行けない

見せたいものを見せてくれる人に嫉妬する
名前より前に生まれた年を見てしまう
渇望する世界を指をくわえて見ている25歳の私を
10年前、15歳の私が見たらどう思うのだろう

感情が止まらない今の私は情動の塊だ
穏やかな人に憧れたけど
大人な女性に憧れたけど
書きたい物や言いたいことがそのまま私なんだとそう思う

25歳なんて何が変わったかな
髪が伸びてお化粧が上手になった
恋人も友人も家族もいる
社会人なんてピンキリだと知った
あの街にはあまり行かなくなった
本は買うけど読みかけのものばかり
お菓子や甘いものは前ほど好きじゃない

生きることを考えるとやっぱり不思議な気持ちになる
見栄や嫉妬は虚しいけれど一生懸命に生きていたら切り離せない

自分の中にある感情やエネルギーを吐き出していきたい
愛したり食べたり書いたり月に祈ったり
何かになりきることは難しいことじゃないけど退屈だ
自分の中のエネルギーを吐き出していかないと死んでしまう
情動に突き動かされて何かをしているときは生きている

25歳の私は全然穏やかじゃなくて
こんなまとまりのない言葉を吐き出している





palette

« I like it, I'm twenty five≫

the song for my twenty five



書いては消して

聞き慣れた歌のフレーズの意味に気付いたり、読み終わった本の台詞をふいに思い出す瞬間が、ひとつふたつと増えていく。花びらをちぎってつぶして作った色水みたいに、透明さを残した優しい色で少しずつ変わっていくのは私と世界のどちらだろう。

まじりっけのない気持ちに触れる度、真っすぐな気持ちに胸を打たれる度、自分と向き合って、これでいいのかなと立ち止まったり、私に何が出来るかを考えたりするけれど、今日をゆっくりと消化していくこと以外に何も答えを見つけられない。
何かに焦がれることは、自分や大事な人をがんじがらめにする鎖じゃない。世界がすっかりペンキで塗り替えられたように色を変えたなら、なんて願いも持っていない。絶対、なんてどこにもない。書いては消してを繰り返した末に残した文章ですら、数日経てば、なんだか嘘っぽく見えたりするものだ。

今はただ下書きのような時間や立ち止まって迷う時間が愛おしい。この時間から振り落とされずに同じ場所へ辿り着けたらと願う気持ちが、手のひらから伝わりますように。



月曜日

「磨くのは可愛い演技をした自分じゃない、魂だよ、賢くなって、馬鹿のふりするんだよ、罵られることに鈍感になってはいけない」
休み時間にtwitter開いたら東佳苗さんの言葉が飛び込んできて速攻ハートマークを押した。縷縷夢兎みたいな暴力的な程に可愛い洋服、誰でも着れるわけじゃない。魂が強い子じゃないと着れない。翼のように軽そうで、鎧の様に重そうな服。 縷縷夢兎は私のどんぴしゃ可愛いとは違うステージ(というかリング)にある世界だけど、それでも縷縷夢兎を見てると否応なしに突き付けられる絶対的な可愛いの強さに、少し苦しくなってしまう。私だって賢くなって、強くなって、努力なんてしてませんみたいな顔してふわふわ可愛くしてたい。可愛いの最大公約数みたいな女の子にはなれないけど、愛嬌も柔らかさも、全部私の武器にして私だけの「可愛い」をポイントみたいに沢山集めたい。可愛い服を着たい。可愛い顔になりたい。誰か別の人になりたいんじゃなくて、今の自分をもっと好きになって、好きな人にもっと好きになってもらいたい。何年前の自分がベストだったなんて、そんなの耐えられない。
「神様より太ももの隙間を信じてる」
これは19歳とかそのくらいの私が書いた言葉。若気の至りでも、中二病でもなく、確かに私の心からの言葉だった。それが世界の絶対ではないことは大人になって気付いた。今でもやっぱり太ももの正しい隙間、前髪の正しい長さ、そういうのは私の心をかき乱したり守ったりするけど、それでも私はちゃんと知っている。太ってても痩せてても顔が整っていても整ってなくても、女の子はみんな可愛い。可愛いには多様性がある。テンプレの可愛いはもう古い。
可愛いは正義か、呪いか、それともお守りか。自分だけの、誰とも被らなくて誰にも壊されない、強い強い「かわいい」を来年こそは手に入れられるのだろうか。恋人は少し心配そうな顔で「今のままでいいのに」と呟く。そういう言葉は私のストッパーになるし、ああそうか可愛いと愛されるのはイコールじゃないんだなと正気に戻れる。でもやっぱり「可愛い」と言われると体温が上昇して血の巡りがよくなって心にも体にもいい気がするし、何より私が私を好きでいられる。

若さは有限。若いことはえらいことではないけれど、公平に与えられた自分の可能性ではあると思う。だからこそ、こんな時間に帰路についたって、薄給だって、やっ…

戦うあの子たち

大好きな女友達と深夜に久々に話したら、一気に心にブーストがかかった。女友達はかけがえのない財産だとつくづく思う。私には「戦友」としか呼びようがない女友達が何人かいる。というか、気心知れずにあれこれ話せる女友達は全員「戦友」と言っても過言でないほど、私にとっての彼女達はそれぞれの戦地で、それぞれの武器を持って、人生に挑んで戦う仲間だ。しかもこれは私の一方的な感覚ではないようで、彼女たちの口からもやっぱり「なんか、戦友感あるよね」なんて言葉が出たりする。

 私たちに共通しているのはなんだろうと考えると、負けず嫌いだったり向上心が強いが故に、理想と現実のギャップや、色んなしがらみに苦しんで闘ってたりするところかもしれない。仕事しかり恋愛しかり、自分でハードルをどんどん上げて、「乗り越えられるのか・・?」と苦しむ私たちは、完全にハンター気質で何かを手に入れることに燃える(燃え尽きることましばしば)タイプだ。あと、どこに居ても誰と居ても自分を持ってたくましく生きていける子というのも共通してるかもしれない。

私たちは頻繁に連絡を取り合うでもなく、定期的に会うわけでもない。学校とか会社とかの大きな団体の中で偶然出会って、人生の中のある一定の期間、物凄く深く濃い時間を共有して、その間はとことんお互いを信頼し合って一緒にいて、時には辛いことや困難を乗り越えて、沢山楽しいことをして、ある時期がきたら「じゃあここで!私も頑張るからそっちも頑張って!なんかあったら連絡して!」とサクッと別れてそれぞれの道を歩きだした、そんな関係だ。

時々「女子会」ではなく「近況報告会」という名の人生の進捗を報告し合う会を開く。ふわふわしたパンケーキを食べながら全然ふわふわしていない話をしては互いを激励し合う。ある時期の人生が交差して、また別の道へ分かれたとき、恋人ならそれきりだろうけど、女友達は違う。どこにいても、しばらく会っていなくても、いつも心の奥底では繋がっていて、SNSにアップされる些細な投稿ひとつで相手の状況や心境をかなり正確に感じ取ったりする。ああ今結構追い込まれてるな、とか、だいぶ強くなったな、新しい武器手に入れてる、とかそういうのを互いにしっかり把握している。

 当たり前だけど、SOSが出た時は最優先で駆け付ける。私たちは弱いから強くなりたいと思う。武装していないとボロボロになってしまうから、頑丈…

野暮

つらつら書いた長文をそっと消した。変に綺麗な言葉でドラマティックにまとめるのは、今の私には野暮なことに思えてしまう。iphoneのメモ帳に並ぶ言葉はまるで小説の一ページみたいで、私の言葉じゃない気がして「なんか違う」と急に嫌になった。

ずっと聴いてた歌の意味は、分かったふりをして分かってなかったんだなって思う
聞き飽きるほど毎日聴いてたのに、一フレーズ目から違う風に聞こえた。
あの頃私がこの歌に心打たれたのは、こんな歌を歌う人が世界にいるなら、もう少しだけ未来を信じてみようと思ったから。出口のない日々の中で、いっそのこと、と思ったときも、この歌を聴くと、こんな風にいつか私も誰かを思う事が出来るのかもしれないから、もう少しだけ生きて大人になろうと思った。
そういうことを、最近よく思い出すのはなんでだろう。




mellow

甘くて切なくてポップでメロウ
雲の上をふわふわ浮くようなのに
ベッドルームの小宇宙みたいな
そんな音楽に出会って嬉しい

例えるなら
夏の夕方に浜辺で見る夕焼けの色
ふと思い出す遠くて甘い記憶
寝すぎたときの少しだるくて気持ちいい感じ
そいういう音楽が今は心地いい




メロディーもリリックもMVも名前を裏切らないフィリピンのアーティスト


それからこの曲に惹かれて仕方ないのに、私の検索能力でも見つからないバンド。 「The lucys」どこの国の誰なのよ



生きる工夫

6月みたいな生ぬるくてじめっとした空気に追い打ちをかけられた朝、負けたくないと思った。迷わずゆるっとしたパーカーを着たのは包まれてるようで安心するから。昨日の帰りに買ったLUSHのクリスマス限定の洗顔料で顔を洗って、久しぶりにアイラインを薄くひいて、下瞼にピンク色をのせた。駅のホームでは目を閉じてのらねこちゃん(のらねこちゃんの話 )に会った日のことを思い出して、電車では大島智子さんの描く女の子たちをぼうっと眺めたり、今日を乗り切る為のプレイリストを作ったりした。記憶から、目から、耳から、色んな「処方箋」を自分にあげていたら、少しだけ心から角質みたいなザラザラしたものが落ちていくのを感じた。こういう生きる工夫なら、小さい頃から少しずつ貯めてきた。おばあちゃんになる頃には歩くライフハックメディアになれるかもしれない。電車を降りたところで、今日を乗り切る為に必要な本を思い出して彼に「持ってきて」と頼んだ。そんなことを朝から頼める存在がいること自体、何よりの処方箋だ。自分を無条件に受け入れてくれる人の存在は尊い。家族がそうであるように、彼も「今の私のまま存在していい」と思わせてくれる。「ありのままの私が好き」とか「人生は上手くいかないから面白い」とか、そういうことを心から言えるほど成熟した人間にはまだなれていないけど、本当は楽しくないのにふわふわ楽しいふりをしているときより、どっぷりと辛さに浸る方が私は生きている実感が沸くのはなぜだろう。今日の朝より苦手なのは、楽しくなかったなあと思いながら歩く朝帰り。あんなのは人生で何回か経験すれば十分だと思う。それより、眠れないなあと途方に暮れながら朝を迎える方が私には合っている。
さっき頬に触れたら、朝使ったLUSHの洗顔料のおかげか、昨日より肌がなめらかになって、それだけで少し嬉しくなった。昨日の私がボロボロになりながら「明日の私のために」としてくれた少しの工夫は確実に今日の私を助けてくれている。自分の人生がちっぽけに思えて嫌になった昨日に比べたら、左の頬の滑らかさを好きだと思える今日はずっとましだ。


眩しい

眠気と煩わしさの区別がつかない。カフェインの錠剤は口に放り込んだ瞬間気が変わって、ガムみたいに紙に吐き出して捨てた。急に全部がくだらなく思えてしまうのは周期の問題?同じ歌が頭の中に延々流れる。「帰ってきたら教えてね東京で待ってるから そんな安っぽい言葉で繋ぎ止めようとした」適当につけたような軽い空気を含んだ名前で、心のドロドロした部分を叫ぶのは、彼女なりの予防線かもなんて、勝手に想像している時点で彼女のブランディングの策にはまっている気がする。彼女の何が好きって、汚く見られてもあざとく見られても、たとえ大多数に否定されても、自分の欲しいものを取りに行くところ。一見なりふり構わずやってるようで、美学があるところが格好いい。誰にも触れられない二十歳の才能、眩しくて羨ましくて、嫌になる。

本当は周期の問題じゃない。ただ今に意味を見出せてないだけって気づいてる。ずっと考えてはいるけれど、もうすぐ25歳になるから余計に気持ちが落ち着かない。今まで何も残してこなかったわけじゃないのに、何も残してこなかったような気がして、何かにあたりたくなるくらい、むしゃくしゃする。もっともっと追求したい、もっと知りたい、だんだん鈍くなっていく自分がこわい、過多くらいでちょうどいいのに。でもこの感情をまだ持てるから私は私のままでいれる。この野心もなくなってしまったら私には本当に何もない。今は感覚を頼りに生きていたい。すぐに答えが出なくてもいいから、表現だけをし続けたい。振り切って消えてしまうくらい強い気持ちだけを燃料にして前に進みたい。全部の音がうるさくて、今すぐここを飛び出したい。余計なものが多すぎて耐えられない。


息苦しさ

また11月がやってきた。秋になって呼吸が楽だけど、常に団体の中で作業をしているだけで、少しずつ少しずつ、ネジがサビ始めているのを感じる。

もう今月で25歳になるっていうのに、夜になると不安になってまだ子供みたいに丸くなって寝てしまう。心の底のゆらゆらした不安は当たり前のようにずっとある。少し気を抜くと、またお風呂場でゴミのようにうずくまっていた日々に戻ってしまうのを知っているから、必要以上に気を張って、まるで戦闘モードのような気持ちで会社へ向かう。取り繕ったり、見栄を張るのだけはどんどん上手くなって、変に言葉を綺麗にまとめて「大丈夫」の皮ですべてをくるみ込む術も覚えた。

ずっと「楽しい」「まだ頑張れそう」と言っていないとダメになってしまいそうだ。

頭に流れてくる思考や心に押し寄せる不安にどうしようもなくなって好きな人の胸に顔をうずめるとき、もうこのまま子供に戻れたらいいのにと思う。弱いところも見せていいよと彼は言うけれど、私はこんな自分が弱いか強いかも分からない。ただ行き場のない感情がずっと猫みたいに私についてくる。私はその猫を膝に抱えたり、距離をおいたり、時々一緒に眠ったりして過ごしている。

世界はしょっちゅう息苦しい場所になるし、いちいちそれに立ち止まっていたらどうしようもないから、たくさん嘘をつきながら朝と夜をリレーする。
人に良い影響を与える人間でありたいと願えば願うほど、無性に自分のことが気に食わなくなる。明日をもっとよくしようと思えば思うほど、朝がくるのがこわい。

黄色い蛍光灯は息苦しさを加速させる。電話の音は心臓に響く。電車の中で不意に泣きたくなる。もう戻らない、もうあの毎日には戻らないぞと抗うことにも疲れてしまう


moon riverを渡るようなステップで

自分が正しいと思ったことを突き通すことは本当に厳しくて難しい。多数決で「正しくない」とされたらただ道を逆走するだけの人になってしまうし、それが辛くて本当は「こっちが前だ」と確信しているのにUターンして自分に「いや、こっちが前」と言い聞かすしかないとしたら、いつかふと来た道を振り返ったときに果てしない後悔に飲み込まれてしまいそうだ。人は私に「そんなに戦って自分がつぶれたら意味がないよ」「そんなことしても世の中察しよくないからね」なんてことを言うけれど、その果てしない後悔を私は誰のせいにもしたくない。自分が最良だと思った選択ならば、10年後、20年後に、それがとても浅はかで幼い判断だったと気付いたとしても、過去の一生懸命だった自分を肯定してあげたいと最後には思えるだろう。誰かの価値観で自分を上書きして生きていける人が世の中では「真っすぐな人」なのかな。

蹴伸び

誰かの顔色を気にして自分をすり減らす時間はもう十分過ぎるほど過ごしたから、好きなことただ好きでいたい。なんでか分からないけど、私はどこでもやっていける自信がある。

たとえば今ここにいる人たちにとても冷ややかな目で見られても、信じてくれて愛してくれる人がいるって私は知っているから、特に何にも怖くない。

怖いのは突然死んでしまうことだけ。あとは何にも。

大きなプールの端っこに立っている人たちなんて置いて、ぽーんって壁蹴ってすいーって真ん中に出ていきたい。

近い友達に無責任って言われたことあるけど、私はそれでいい。自分の決断以外、何に対しての責任を抱える必要があるのだろう。

「親になってもそんなに無責任でいるの」昔の恋人にそう言われたこともある。彼にはいつも言葉が届かなかった。伝わらなかった。私はどうでもいいものには無責任だけど、それが私が「大切にする」と決めたものであればどこまでも守りきる。そんなのも伝わらなかった。

「絶対誰とも合わないよ」なんて呪いのような言葉をかけられた夏がもう随分遠い。




14番目の月

「あなたの気持ちが読み切れないもどかしさ
だからときめくの
愛の告白をしたら最後 そのとたん終わりが見える
言わぬが花 その先は言わないで
次の夜から欠ける満月より14番目の月がいちばん好き」
14番目の月/スピッツ

青春ごっこみたいな14番目の月の夜
先のことを何も考えずにいられるぎりぎりの私
十五夜は雨だから14番目の月を見ておきたかった
厚くて速い雲間から覗く月は明るくて
こんな日々がいつまで続くんだろうと思った

「ほら月明かりが
長い夜に寝付けない二人の額を撫でて
まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実頬張っては月の裏を夢見て
笑っておくれダーリン素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」

エイリアンズ/キリンジ


命を燃やす人

もう一年近くが過ぎるのに、雨宮まみさんが死んでしまった衝撃は、今も私の心に引っかかったままだ。

「書きたいことが書きたい。いい文章が書きたい。お金とかそういうことじゃなくて、これが私ですと言えるような、そういう文章をひとつでもいいから書きたい。そうじゃないと、人生なんてあっという間に終わってしまう。(略)嘘をつくのはやめよう。対外的にいい顔をするのはやめよう。できもしないことを、無理してできるふりをするのもやめよう。今年だけでもいい、嫌なことは嫌だと、できないことはできないと言おう。私は、私の人生を生きる。だって、もうそんなにたくさん残ってるわけじゃない。まだ若い、けれど、永遠に続くわけじゃない。生命自体は続いても、体力も気力も充実していると言える期間がどれだけ続くかわからない。私は、私のしたいことをする。私は、自分の書きたいことを書く。そして私は、なりたい私に、本来そうであった生身の私になるのだ、と思った。」引用:「40歳がくる!」より

自分の書いた言葉かと思うほど、私は雨宮さんとある部分の思考が似ている。似ているから彼女の文章が好きだった。命を燃やして紡ぐ言葉が好きだった。雨宮さんが突然死んでしまったとき、やっぱり人生はふいに終わってしまうのだなと、したくなかった答え合わせをしてしまったような気持ちになった。

それでも私は命を燃やして作る人が好きだ。雨宮さんがもう言葉を生み出すことがなくても、雨宮さんの書いた言葉に私はこれからも何度も救われる。その言葉は時間とともに私にとって意味を変える。雨宮さんの声はずっと生き続ける。命を燃やし身を削って何かを生み出すことは死へ向かうことではないと思いたい。命をそこに乗せられるだけの想いがあるということ。それは時間を超えて届くということ。そういう音楽や舞台や言葉が持つ力に私はいつも引力のように吸い寄せられる。国や時代に関係なく、深く共鳴する。太宰、ゲーテ、サガン、ビルエヴァンス。そういう自分の心の真ん中に容赦なく入ってくる音楽や言葉。雨宮まみさんの叫びのような文章もそうだ。星野源が日本中に届けようとする丁寧な言葉や穏やかな優しさ、野田秀樹が狂気的に生み出す舞台の上の爆発的なエネルギーと、そういう人が私の情動を動かす。

死んでほしくない人達。ずっと発信し続けてほしい人達。雨宮まみさんもそうだった。だから私は今も雨宮さんの言葉が聞きたく…

冷えた朝の空気とか

どうでもいい惰性の恋愛なんて耐えられない。それならひとりで本を読んだり映画を観たりしてあれこれ考えてる時間の方がずっと豊かな気持ちになる。お互いがいないとダメになってしまう恋愛も友情も楽しくない。自立したひとりずつが手を取り合ったときにもっと大きなエネルギーになる方がワクワクするから。恋愛とか、彼女とか、親友とか、形式の言葉が苦手。

確かに、意味のないものなんてひとつもないんだけど、どうでもいいものは本当にどうでもいいと割り切る勇気を私は持ってたい。私が大切だと思うものは、人がどうでもいいと笑っても絶対に大切にする。冷えた朝の空気の中で考え事をする時間とか、髪の毛のサラサラする調子の良さとか、私が好きなものは私がちゃんと大切にする。




星野源は「くだらないの中に愛がある」と歌うけど、それは彼が日常に本気で向き合っているからこそ気づける尊いもの。


いつだってふいに死んでしまうのが人間だ。生きている意味をもっともっと感じたいから生きている。「考えすぎだよ」と言われても、思考することをやめられない。「些細な日常の幸せに人生の意味はあるんだよ」と言われても、テンプレのそれを得て満ちたりた気持ちになるなら野心と夢をちゃんと形にするまで満たされてたまるか、くらいの気持ちでありたい。自由に身軽に生きてたい。でも分かち合いたいし寂しいのは嫌だ。矛盾だらけの私でいたい。明るく朗らかにのびのびと生きられる場所に住みたい。綺麗になんてまとまれないし、物分かりの良い恋人にも娘にも部下にもなれなくていい。私は自分が惹かれたものを信じて、それを大事にする。恋愛も会社も家族、私が選んだ大事なもの。それは鎖じゃないから、私はいつだってどこにでも行ける。

生き急ぐ。

自分の生き方を思う時、浮かぶ言葉がふたつ。「刹那」と「生き急ぐ」。相反する言葉かもしれないけど、それはぴったりくっついて、私の中にいつもある。刹那は、今が一秒でも失われることを惜しむ気持ち。いつだって夢みたいな一瞬が過去に変わっていくことが惜しいし、その一瞬から自分が振り落とされていくのは悔しくて悲しい。だけど同時にあるのは生き急ぐ気持ち。脇目もふらず前へ前へと進んでいきたくなる。何の変哲もない日常の中に、人生の意味や答えが見つかるかもしれないのに、つい、それとは違うものが欲しくなってしまう。



悩むふりや愛すふりなんてしている時間は私にはなくて、いつだって本質が知りたい。その人の芯の部分、その仕事が存在する意味、そういうものが知りたい。涼しい部屋でずっと寝て起きて心地良い感覚だけを味わうとき、自分が死に近づいていくのを感じる。痛かったり苦しかったり、悩みもがいて、何かを得たとき、ああ生きているなって思う。クロールの息継ぎみたいに必死に泳いで、苦しくなって思いっきり酸素を求めるとき、生きていることを感じる。


今しかできないことがしたい。遠くまで行きたい。濃くて強くて気が遠くなるような感覚に「これ以上の人生はあるかな」と思ってみたい。明日死んでしまうとしたら、私は何処にいて誰といたいんだろう。近頃はずっと、そんなことを考えている。

眠気

夏風はもうすっかり秋風に変わった。9月が終わっていく。 私はずっとあくびをしていて、下瞼にたっぷり溜まった眠気に揺られて、いつまでも溺れていた。脳と視界がくらくらして手足はポカポカとあたたかく、少しダメになっている自分がそこにいた。恋ってこういうものだったかな、なんて記憶を辿りかけてやめる度に、どうしようもなく「今」しかないと気づく。



金木犀は月曜日の大雨で花を落としてしまったのか、もう香らない。一瞬だったなあ。好きな人と嫌いな人が色濃く分かる季節に、欠点なんて愛せるか愛せないかの問題だなと思う。長い人生(もしかしたら短いのかもしれないけど)で考えたら、そこに悩んでいる時間はとても勿体ない。あれもこれも欲しくて時間も体力もお金も足りない24歳。25歳は一体どんな1年になるんだろうと気になるけれど、25歳の1年よりもお昼休みまでの45分間をどうやり過ごすかの方が今は重要だ。

こんなに眠くて生きていけないと思った次の瞬間、すっきり目が覚めたりする金曜日。デスクでうとうとして、ああいけないと目を開けると服から彼の匂いがする。あと30分。30分経ったら眠って外へ行く。私たちは自分が思うよりずっとずっとたくましい。



文通

私はひとりが好きで、その人はひとりが嫌いで
それなのにお互いを選んだから、私たちは分からないことだらけだ

なんだか文通みたいだなと思う
私は何度も同じことを手紙に記す


・ひとりが好き
・だけど自分のことを知ってほしい
・愛情を大きく伝えるのが苦手
・恋には賞味期限があると思っているから少しこわい
・生き急いでしまう
・生活がだらしない
・思考があちこちに飛ぶ
・気持ちがふっと変わる瞬間がある
・秋冬は息がしやすくて夏は苦しい


ずっと繰り返していくことができたら、出会った意味を見出したりするのかもしれない。少し逃げ出したくなったりしながらも、厚みを増していく手紙の束が私に色んなことを教えてくれるのかもしれない。


「私たち」なんて言ったって、それは私と誰かのの他人同士。
私以外はみんな他人だから、分かったふりはしたくない。
25年一緒にいる家族のことだって、今もまだ分からない面がたくさんある。

彼の引き出しに入る手紙には、なるべく優しくて嘘のない言葉を書きたいと思う。
レシートの裏に油性ペンで殴り書きしたみたいな優しくない言葉を投げつけられた日に読みたくなるような、そういう存在であってほしいなと思う。

誰かに踏まれても、破られても、届けたい人にちゃんと届けばそれでいい。




night swimming

時々、一緒にいると不安になる。心がざわざわと心細くなる。世界中にひとりぼっちみたいな顔をしたその表情を私はよく知っているから。その人が抱える感情があまりにも強くて濃くて、私もそれを受け取ってしまうから、もう戻りたくない場所へ少しだけ連れ戻されてしまう。谷川俊太郎の「20億光年の孤独」の「万有引力とは引き合う孤独の力である」という一節を思い出す。出会うべくして、なのかもしれない。私はその人が閉じこもってしまう場所をよく知っている。そこは例えるなら、終わらない夜に忍び込む誰もいないプール。膝を抱えて沈めば、ゼリーみたいな水にどこまでもどこまでも潜っていける。何の音も聞こえなくて、光も差してこなくて、冷たくもあたたかくもなくて、ただそこに身を任せて沈んでいくだけ。前の私なら一緒になって沈んでいっただろう。そこは何もないけれど、少し居心地がいいから、つい長居をしてしまう。眠ったり起きたりしながら朝も昼も夜もなくなって、溺れたことにすら気がづかずに時間が経っていたりする。ああこのままじゃだめだと、そこから何度も水面に手を伸ばしては、水面まで顔を出し息継ぎをして、またすっと潜っていくのを繰り返していた。でも水面上に光る月がどうしても見たくなって、水圧に抵抗しながら懸命に上へ、上へともがいた。ようやく足がつく浅い場所に辿り着いたときには身体はすっかりふやけていたけれど、力を抜けば仰向けに水に浮かんで月を眺めることが出来ることにも気づけた。


その人はまだ光の届かない深いところにいるのかもしれない。今なら私は勇気を持ってそこまで潜っていける。どんなにそこが静かで居心地が良かったとしても、絶対に手を引いて水面まで一緒に上がってみせたいって思える。ああ疲れたね。指がまだふやけてるって笑いながら、月を眺めて一緒に帰りたい。何度もそこへ戻ってしまうなら、何度もそこへ迎えにいけばいい。いつか道を忘れてたどり着けなくなってしまうまで、何度も迎えに行けばいい。








一番最初の金木犀の香り

秋がきて、気付いたらどんどん元気になった。ぎりぎりのところで、それでも腐らないでいたら、ちゃんと良いことが沢山あった。この秋初めての金木犀の香りに気付いたとき、隣には好きな人がいて、その瞬間、驚くほど満ち足りた気持ちになった。心の中の色んな角が取れて、まあるくまあるくなっていくような気がした。手の甲に、こめかみに、身体の奥の方に、あたたかい光が流れていくような感覚がした。私もちゃんと物語の主人公なんだな、と幸福で同時に誇らしい気分になった。

だけど、そんな奇跡みたいな瞬間は本当に瞬間だって知っている。知っているからこそ、しっかりと切り取って心の中に思い出として残しておく。辛い時にはそこからそっと会いたい人や味わいたい気持ちを取り出して、ああこういう瞬間があるから今までやってこれたな、これからもきっとこういう瞬間があるから生活を続けようって思えたりする。

もちろん私は本当に欲張りだから、その奇跡みたいな瞬間を日常的に味わいたいと思ってしまうし、もっと素敵な奇跡を見てみたいと思ってしまうし、少し嫌なことが起こるとそのことで頭がいっぱいになって「選択を間違えちゃったなあ、私はだめだなあ」なんて簡単に思ってしまいがちだけど、どんなに行き詰って先が見えない状況になっても、今まで起こったキラキラした一瞬はなかったことになんてならない。それをちゃんとわかっていれば、私は何度でも自分を持ち直せるっていつも思う。




時には明るい歌を

髪を暗くした。
陽の光にあたると少し茶色が透けるような黒。

たくさん喋って食べて歩いて考えて。
そんな日々の中にいると、ああ私生きているなって思う






夏が嫌い

長く結んだ一つの髪束を根元から切ってしまいたいと思う時がある。何度も。

伸ばすのは気が遠くなるほど時間がかかるのに、切ってしまうことは一瞬。あっけない。

それでも、何度も床に落ちる髪束を想像しても、実行したことはない。

だって考えてしまうから。その後の後悔を。

明日のことを考えずに感じるままに生きることは今の私には出来ない。

明日がこわいし、明後日もこわい。

でも、立ち向かう勇気はある。いざとなったら逃げてしまえと思える図々しさもある。



私はまだ何も成し遂げていない24歳で、肩書きはなくて、お金もなくて、恋人もいない。

そこにある明日だけが私の持ち物で、それはあまり輝かしい1日ではないけれど、神様は私に想像力をくれたから、私はどんな1日も好きなように変えていける。

長く結んだ一つの髪束を根元から切ってしまいたいと思う時、その先の後悔も想像する。やがてやってくるだろう諦めも想像する。想像して、想像して、決断をする。

その決断はぬるくて、もろくて、どっちつかず。

それでいいんだ。私、自分と向き合うことすら出来ずに悩むことから逃げる人にはなりたくないから。もがいた先にしか答えはない気がする。

悔しくて仕方がないけど、それをバネにして絶対に。絶対に。

いつか、ばっさり髪束を大きなハサミで切り落として笑っていられるくらいの器の人間になりたい。



十五夜に空を飛んで

シンガポールへ旅行に行った。

ローカルも観光客も分からないくらい人種も文化も混ぜこぜ。

暑い国特有の軽やかな空気。

昼間どこにいたのだろうと不思議になるほど、日が暮れると外に出てくる人の多さ。

夜は長くて朝も昼もあまり境目がない。

夕焼けのオレンジが濃い。

出来て70周年の新しい国は全てが人工的。

植物園、大きなショッピングモール、夜の動物園、

リトルインディア、チャイナタウン、アラブストリート

まるでひとつの大きなテーマパークのようなその国に住む人々は一体どこから来たのだろう。なぜそこに住むことを決めたのだろう。

私はそこでは誰でもない。日本人という名札すら捨てられる。

そこにいることは心細くて心地よくてひとりぼっちで自由。

ホテルのシーツは冷たくて気持ちが良くて、ここ最近で一番よく眠れた。

飛行機の中はなぜか色んな思い出が浮かんで来て涙が出た。

使い古された言葉を思い浮かべた。「人生は旅」、本当にそうだ。

どこを終着点とするか、誰と、どんなペースで旅するか。どんな風景を見るか。

それを知るために私は旅をする。自分探しとは上手く言ったものだ。


帰ってきてからはずっと胃が痛い。

やっぱり眠れなくてこうしてキーボードを叩く。





20th century women

観よう観ようと思っていて、ようやく。 心にエンジンがかかっているときはこういう映画を避けてしまう。 心が揺さぶられたり、世界観や物語に引っ張られてしまいそうだから。 心がぐらついてそれまでの勢いが消されてしまうのがこわい。
がらんどうのようなの心のときは、 こういう映画がまるで水みたいにぐんぐん染み込む。
色彩も、会話も、音楽も、表情もすべてが訴えかけてくる。
行き場の無い心に寄り添う映画だった。
時折目頭が熱くなって涙が頬を流れた。

自己破壊的だと言いながら、誰より自己愛の強いジュリー。 思想の自由を訴えるのに、無意識に人を自分の価値観で縛るアビー。 出会う人、過ごす時間、全てを糧に自分を形成していくジェイミー。

全ての登場人物の片隅に自分の影を見つけた。


























ひとりより怖いもの

ひとりぼっちは全然こわくない。
それよりこわいのは 深く深く繋がっているようで 何も分かち合えない関係
その訳の分からない関係がこわい
一方的に誰かの中で 私という存在が大きくなって 想いという、何か薄暗く湿っぽいドロドロしたものに足元を固められて動けなくなるのがこわい
どうしてだろう 「愛はこれだけあります」と 差し出されたところで 「でも私は要りません」と思う
それでボロボロに傷付く人を見るのが嫌だ、涙で濡れた眼差しが「全部お前のせいだ」と訴えてくる
なんでお前はそうなんだ、と

だって他人同士だから。ひとつになることなんて出来ないのに。




鶴見線

今日初めて鶴見線に乗った。
鶴見線は、街と工業地帯を繋ぐ乗り物だった。
送り届ける人のいない日中は本数もほとんどなくて車両もガラガラだった。
ぐんぐんと工業地帯へ入っていく電車はさながらアトラクションのようで、
見渡す限り工場ばかりのそのエリアはまるで巨大なテーマパークのようだった。

帰り道、工場だらけの街を歩いて駅へ向かった。
車で通勤する人が多いのか、ほとんど人は歩いてなかった。
ネオンも家の灯りもない道は足元が暗かったけど
見上げると月がまんまるで、煌々と発光してとても綺麗だった。
川面は月に照らされて、白い光が溶けているように見えた。




のらねこちゃん

ちょうど1週間前の日曜日、よく晴れた初夏のような日、兎丸愛美さんの写真展に行ってきた。兎丸愛美ちゃん。のらねこちゃん。眠れない夜にiPhoneの中で見つけた女の子。私は彼女の本当の名前も年齢も何も知らなくて、でもその瞳を知っていると思った。嘘じゃなくてポーズじゃない、悲しみや辛さや、はち切れそうな空っぽが其処に映っていた。と、勝手に思った。 先週初めて会った彼女は、白い画廊の中でずっと声を上げて笑っていた。緊張で汗をたくさんかいてしどろもどろな私にも、ありがとう、嬉しい、と何度も笑顔で言ってくれた。私が羨望の眼差しで見つめてきた特別な女の子は「きっとぜんぶ大丈夫になる」から、生きていこうねって笑ってくれる、最高に素敵な普通の25歳の女の子だった。
まともに話せなかったし、渡した手紙もちゃんと書けていたか分からないけど、「全然大丈夫じゃない」私が勇気を出して会いに行ったこと、きっと優しい彼女は分かっていたから、帰り際ずっと笑顔でバイバイして見送ってくれたんだと、勝手に思ってる。
私の「普通」をもっと大事にして、もっと強くて優しい人になって、また会いに行けますように。

本屋さん

本屋さんにいると、とろんと眠くなってくる。
絵本や料理本をぱらぱらとめくりながら、
ちゃんと自分の家庭を持ちたいな、と近頃思う。
その時隣にどんな人がいるのか分からないけれど





眠りから覚めて思うこと

ドアを開けたら春の気配がする冷たくて新鮮な空気に 瞳も指先も顔も髪も包まれて「潰れちゃいけない」と思った。
上手くいかないことのひとつやふたつ どうにかして生きていけばどうにかなる
そろそろこの街を出よう、潰れる前に出よう

眠りの中で思うこと

とにかく、日曜日に寝過ぎてしまう。
まるで吉本ばななの「白河夜船」の主人公みたいだ。
「深い眠り」は意識の向こう側だ。
願いも、会いたい人も、不安も、記憶も、出て来てしまう。

自分が思い描く「なりたい私」であろうとするあまり
反動で疲れて眠りこけてしまう。



眠っている時は幸せだ。
うつらうつらと眠っていると、「なんでもいいや」という気持ちになる。

昼も夜もないような日曜日から目覚めた月曜日は
「今週こそ」と思うし、日々暖かくなる外の世界を感じて
「私が眠っている間に春がきたのだろうか」とぞっとする。

眠り過ぎる自分のことは好きではない。なりたい自分でもないし。
でも、どれだけ寝過ぎても、どれだけ食べ過ぎても、
それがギリギリで自分を保つ方法だから、自分を責めたくはない。

結局、苦しいのは私だから。
立ち向かうのも私だし。

今もまだ身体はベッドへ戻ろうとしている。
あと1日でいいから、気が済むまで眠って、それから完璧な朝食を食べたい。

それでも月曜日まではあと2時間もない。
仕事をしないと。寝た分を取り戻さないと
本当の自分に戻らないと。









2017.1.23

すごく疲れている。自分に。 「あれも出来るぞこれも出来るぞ」 「明日はこんな私になるぞ」
そんな自分の心に疲れている。 自分の抱える炎に疲れている。 私の持つ希望に。途方もない悲しみに。 私の気持ちは、壮大過ぎるのだ。
凍えそうな寒さや 熱く胃に落ちる珈琲に ああ生きているなあと嬉しくなり
止まらない命と時間の刻みに 幼いときの記憶を思って涙が落ちる
私の気持ちは私が思うよりずっと 大きく強く波打って遠くまで行ける。
だけど私の身体はそんな心を抱えきれない。
身体はいつも心に振り回されて 心はいつも身体に縛られている。
明日という日は途方もなく自由なのに 夜と朝はまるでタイムカードのように ただそこにあるだけだ
でも眼を閉じれば 私は何処までも深く潜れる たった一人、卵の殻の中で膝を抱えて 透明な世界にプカプカ浮いていられる
私はずっと私のままだ

いつものこと

くじけそうになる日もあるし
自分がとてもくだらない存在に思える日もある
何をしていても楽しいと思えない日や
耳に入る音全てがノイズに聞こえてくる日もある


そんな一瞬が溜まっていくと
「あれ?私の人生って退屈なのかな」と思えてくることもある
だから私は必死でそれから逃れようと走る

数滴の香りをまとって立ち込める靄のような気分を払ったり
コーヒーを飲んでぼうっとしてみたり

心にもやが立ち込める瞬間は誰にも訪れるし、完全に逃げることなんて出来ないけれどその一瞬よりも、ふと心に宿る光を大事にすくいあげたい。




2017 happy new year.

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今月のテーマ曲は今一番観たい映画「lalaland」のこの曲。

ポスターが素敵だからって理由だけでサントラをダウンロードしたんです。
で、元旦に友達と出かけた帰り、駅から家までの夜道のお供にこれを聴いて、
イントロでもう「うわ、これ好き!」って興奮しました。
ピアノのうきうきするリズムやハミング、ジャズ、全部好きです。


元旦の夜をとても美しく楽しく彩ってくれたこの曲が1月のテーマ曲。


さて、今年はどんな年になるんでしょうか。
絵馬を人生で初めて書きました。
「自分の人生を自分の力で切り開く」と。

自分を信じて、自分の「好き」や「綺麗」という感覚を信じて、
思いっきり自分の人生に邁進する1年にしたいと思います。